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2017年7月 3日 (月)

置かれた場所で咲きなさい

   【置かれた場所で咲きなさい】
生きている間には「こんなはずじゃなかった」
と言いたくなるようなこと、 想定外のこと、
期待外れのことがたくさんあります。

そのような状態・立場に置かれた時でも明るく
前向きに生きていく。
つまりそれが、置かれたところで自分しか咲かせることができない花を
一生懸命に咲かせることになるのだと思います。

私は女子学生達と40年以上関わってまいりました。
そして、この「置かれたところで咲きましょう」という言葉を入学してきた人達に話すと同時に、
卒業していく学生達にも話すようにしています。
入学してきた人達の中には必ずしも私共の大学が第一志望ではなかった、
不本意入学の人達もいらっしゃいます。 
その人達にキリスト教の一つの生き方として「置かれたところで咲く」という言葉を贈ります。

また、卒業して社会に出ていく人達、
置かれた職場で思ってもいなかった仕事が与えられたり、
または結婚して期待どおりの家庭が築けなかった。
子育てにおいても子供が思ったように育ってくれない。

つまり、その時その時に置かれた状況、そこで嘆いたり悲しんだりしているだけではなく
「周りの人が悪い」とか自分以外の他の人達が「こうなってくれればいいのに」
という気持ちを持つ以上に、 自分がその場で置かれたところで咲く、
前向きに生きるということを卒業してからの生活の中で実践してほしいと思います。

私自身の生涯を考えてみましても、
数多くの「こんなはずじゃなかった」と言いたくなることがたくさんありましたし、
また、これからもあるだろうと思います。

30歳近くで修道院に入り一人だけアメリカに5年ほど派遣されました。
戻りますと思いがけず、行ったこともない岡山という土地に派遣されて、
35歳でしたが、その翌年36歳の若さで4年生大学の学長に任命されました。

それまでの15年間、この大学はアメリカ人のシスターたちが初代・二代の学長を務め、
お二人とも70歳代の方でいらっしゃいました。
そこに初めて日本人としての学長がそれも修道生活まだ5年、
有期誓願しか持っていないシスターで、
前の方達の半分の歳にもならない、その大学の卒業生でもなければ岡山の人間でもない。
そのよそ者に対しての風当たりは結構強く、私も辛い思いをしたことがございます。
時には修道生活を考え直そうかとさえ思ったことがあります。
その時に二人の神父様から私は助けていただきました。

お一人は私が30歳まで7年間働いていた職場の上司でアメリカの方でしたが、
その方に私の色々な不平・不満を申し上げましたところ、
その方はご自分も修道士・修道者でいらっしゃいましたが、
私のお話をお聞きになってなぐさめてくださるどころか、
「あなたが変わらなければ、どこへ行っても何をしても同じだよ。」
とある意味すげないお言葉でした。

私はその時に振り返ってみますと、自分が「くれない族」だったと思うのです。
こんなに若くて知らない土地で急に学長になって苦労しているのに、誰もなぐさめてくれない、
私の辛さを理解してくれない、誉めてもくれない、挨拶もしてくれない。
そういう「くれない族」であった私にその神父様が、
「あなたが変わりなさい。 人に求めるのでなくて 自分から与える人になりなさい。」
ということを教えてくださったと思います。
そして私の方から挨拶をする人間になり、私から人様にお礼を言い、
お詫びをし、人様を誉める。
そういう人間に変わったときに不思議と周りの方が変わってくださいました。

もう一人の神父様は岡山でお仕事をしていらしたベルギー人の宣教師の方でしたが、
私が苦労しているのを見かねてか一つの英文詩をくださいました。

「神様がお植えになったところで咲きなさい」という詩でした。

私は「神様がお植えになったところ」というのを「置かれたところ」と変えて訳したのですが、
「置かれたところで咲きなさい。仕方がないと諦めるのではなく咲くのです。
咲くというのは自分が幸せになり周囲の人を幸せにすることです。
咲くということは私は幸せなんだということを周囲に示して生きることなのです。」
という内容の詩でした。
咲くということは本当に大変なことだと思います。

しおれている方がよほど楽だと思うときがありますが、
やはり私たちは神様が置いてくださったところ それに間違いはない。そこで咲くのだ。

自分で置かれたところを変える時が来るかもしれない。
でも置かれている間はその置かれたところで咲くのだ。
ということを教えていただきました。
そして私自身が自分が置かれた岡山という地で、
置かれた学長という立場で咲く決心をいたしました。

咲くということは自分が幸せになることであり、他人も幸せにするということです。

戦後まもなく一人の男性の方が選ばれてヨーロッパに留学をなさいました。
その当時、留学をするということは本当に稀なことで、
みんなから羨ましがられ祝福されてヨーロッパに行かれたのですが、
行ってみると、戦争中に語学というものもあまり行われず教科もできなかったものですから、
その方は周りの方が次々と質問をしたり、
答えたりしていらっしゃる中で劣等感の塊になられました。
そして恥を忍んで日本に帰った方がいいだろうか…と
思いながらある朝学園の庭を歩いていらしたときに、
ひともとの小さな花がけなげに咲いているのをご覧になりました。
その時に「小さきは 小さく咲かん 小さくも 小さきままに 神を讃えて」という境地を得て、
それからご自分の劣等感から自由になって立派に卒業して日本にお帰りになりました。

私はこの話を伺って本当に良いお話だと思いました。
その方にしてみれば自分はタンポポでしかない。
周りを見わたすとバラ カトレア カーネーションのような人たち。
その中で劣等感の塊になっていらした。
でも、考えてみたら確かにタンポポはバラになれないけれども、
バラもタンポポになることはできない。
そこで自分は、タンポポはタンポポのままで置かれたところで咲いていたらいいんだ。
ということにお気づきになりました。
時に人が「きれいな花だ」と誉めてくださることもあれば、くださらないこともあります。

『人 見るもよし 人 見ざるもよし 我は咲くなり』

人の目の前でなく、神の目の前で咲いていたいと思います。
一人一人が神様が植えられたところで 精一杯に咲きなさい
咲くということは、
笑顔で生きるということです
  ーノートルダム清心学園 理事長 渡辺和子ー

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